私は教員時代に研究室ゼミ生80人の皆さんの卒業論文(以下,卒論)を指導しました。
卒論指導は文字通り,卒業認定の「論文」作成ですが,大学4年間の学びを一人ひとり独自に「焦点化」して「問題提起」「仮説の提示」そして「解決策の提案」をするという結構手間のかかる作業なのです。
また,卒論は彼・彼女らのその後の人生において「迷ったときに戻るところ」であり,可塑性高く,瑞々(みずみず)しい若い心に向き合うことは真(まさ)に「人を育てる」作業そのものでした。
そして,その向き合い方には大きく分けて二つのアプローチがあります。
ひとつは,テーマに沿った参考文献や関係資料を卒論スタート時からどんどん学生さんに紹介して,効率良く論考を固めさせていくやり方です。
もうひとつは,文章化期限(12月?)ぎりぎりまで私から質問・確認・仮説・そのぶち壊し…の繰り返しを続け,極論すれば,小綺麗(こぎれい)に纏められている先行文献などは私からは一切紹介しないやり方です。
ご想像のとおり,(大部分の)学生さんと指導教員にとって「安全が約束されたやり方」は前者の指導方法です。
しかし,そのゼミ生の資質によっては,とことん独自の論考を深め(迷い・拡げ)させ,最後の最後に「答えあわせ」を行う,後者の指導方法を選ぶことがありました。
その危険な指導をした論文は数本しかありませんでしたが,完成作品はそれぞれに手応えのあるものになったことは言うまでもありません。
ある著名な料理人が「味は付けるものでなくて引き出すものだ」と言いました。
「普通」の食材は工夫を凝らした調味料と料理方法で見た目も美しく味付けられて,それはそれで一つの世界を作り出すのですが,「本物の食材」はふり塩で軽く炙る(あぶる)程度で,素材そのものの個性溢れる持ち味が引き出せるのでしょう。(本を読ませる指導と読ませない指導)
胡散臭い(うさんくさい)蛇足ですが,職場や組織における人材育成に通ずるアプローチのように思われます。